「鉄道は心をうつ」国土交通委員会の発言の背景

「鉄道は心をうつ」偶然の再会

東北大震災の式典で、岩手県の被災者が亡き被災者にこう呼び掛けました。「三陸鉄道が全線開通しました。」希望の未来を伝えたのです。

赤羽大臣も「常磐線の福島県被災地域路線が回復したのを、復興の象徴として」と述べました。鉄道には何か、道路とはまた違う、心を打つものがあるように思います。
私にとってこの想いの原点となっているのが、30年以上前、日本で初めてとなった100キロ以上の超大路線の廃線でした。道東の北見から池田町にいたる池北線です。廃線まじかの列車に、自治省から出向していた副知事はじめ、何人かで北見まで行って乗車しました。「なんとか残せないだろうか」と思いつつ、廃線は民営化法ですでに決まってるので、どうにもならない現実に悔しい思いを抱きながらの乗車でした。

路線は、バス転換をしましたが、そのバスもいつしか取りやめてしまいました。結果、通学手段を失った高等学校は廃校となり、地域の活力は失われました。委員会での私のこの発言は、委員はじめ大臣にも届いたようです。大臣から「極力鉄路は残す工夫をする」との発言を引き出すことができました。

そして、なんという偶然でしょうか。この日の委員会で、総務省から政府説明者としてきていたのは、その池北線乗車時の同行者だったのです。当時、彼は役所の新人でした。最初の赴任地が北海道で、私と彼はそこで出会っていたのです。

委員会終了後、彼と、池北線100キロの廃線を涙を飲んで見守らざるをえなかった悔しさを語りあいました。不思議な縁でした。

 「砂漠に水」から「最後のチャンス」へ

さて、野党の中堅議員が、委員会の場で感謝を表明するのは異例なことです。

私が北海道JR再建問題に取り組んだ5年前、脱線事故は言うに及ばず列車火災、検査値の改竄、挙げ句の果てが社長、元社長の自死。国土交通省は「北海道JRに支援することは、砂漠に水撒くようなものだ、無駄だ」という雰囲気でした。

それが2年前、政府は経営改善命令を出し、北海道庁の消極的姿勢にも関わらず、2年間400億円の支援を決定しました。民営化法の延長議論は、北海道JRにとって最後のチャンスだったのです。

現場を見る、松田昌士さんのDNAと大臣の積極視察

決して明るい見通しではありませんでしたが、赤羽大臣は積極的に動き始めました。どの歴代大臣よりJR北海道路線に乗りました。経営陣とだけでなく社員や地域住民とも話し合いが行われました。

このきっかけは、私が5年前東日本JRの元社長松田昌士さんに相談した時「廃線予定の列車に乗れ、乗らなければ分からない」という言葉です。

乗って初めて分かったことは、朝の9時45分発が最終列車である新十津川駅、その列車に向かって、そばにわざわざ建設した幼稚園の園児が一斉に大きな旗を振っていることです。また、20年ほど前に、定年退職した元・国鉄マンが自費でカフェを作り存続運動の先頭に立っていました。

「行かなければ、わからない」「是非、見るべきだ」と委員会に立つたびに、そう強調しました。それが通じたのか、鉄道局の幹部、局長、そして大臣と続き、赤羽大臣は北海道視察のたびに乗車されました。

画期的な支援策

そしてついに、国の支援額として400億円を3年間、その後も通算10年間の支援が法定化しました。さらに、北海道庁をはじめ、関係町村が列車購入などの支援をする仕組みが構築されつつあります。

大臣に対する感謝だけでなく、この新制度構築に尽力した二人の担当課長にも名前をあげて感謝を表しました。これには大臣も恐縮していたようです。

官僚は忖度でなくよき仕事を

霞ヶ関官僚に、冬の時代が続いています。官僚希望者が激減しているのです。よい仕事している官僚には、正当な評価をすることこそが大切でしょう。政治家や上司への忖度ではなく、「国民のための良き仕事をなしているかどうか」が評価基準でなければなりません。

最後に、「昨年鬼籍に入られた松田さんに見てもらいたかった。でも、あの仕事に厳しい松田さんもきっと喜んでくれるだろう」と結びました。

発言を終えた時、やり遂げた満足感がありました。残るは、JR貨物問題です。世界的な運送企業になる可能性を秘めている企業です。世界で最も成功した国鉄民営化と言われてきましたが、画竜点睛を欠いていたのが、JR北海道、四国、そしてJR貨物問題です。

北海道と四国は目処がつきました。残るは貨物です。

以上

資料:令和3年03月12日国土交通委員会議事速報