引退表明

6月5日、立憲民主党北海道3区の臨時総会が開かれました。その場で、次期衆議院選挙に出馬しないことを表明させていただきました。


ロバート・キャパ(戦場カメラマン)

政治家は、特に野党の政治家は、戦場カメラマンに最も近い職業だとかねがね思っていました。戦場を駆け巡り一枚の写真で戦場の悲惨さ悲しみ怒りを世にとうのが仕事です。その一枚の写真が時には、戦争を終結さることもありました。しかしそれ故に戦場で命を失うことも稀ではありません。キャパもまた戦場で命を失いました。戦場カメラマンも戦場を駆け巡る体力、戦争の犠牲者に寄り添う感性が失われたらその役割を全うすることはできません。

コロナ禍の社会、過酷な貧困格差それに続く教育格差が牙を向くことでしょう。そこに立ち向かうには、現場を走り回る強靭な体力が必要です。それには私は少し歳を取り過ぎました。これ以降はもっと若い人に後を託すことにいたしました。幸い私の周りには、優れた若い人が育ちました。

政治家としての思い

4年前の総選挙で公約とした野党結集と沖縄問題の解決は、不十分ではありました。しかし国民民主党の議員の大半は立憲民主党との合流に参加して頂きました。もう少しのところまで来ています。 また沖縄問題はタブーとされていた地位協定の改正もなされることはありませんでした。しかし地位協定の改正問題は国会で取り上げられることがタブーでは無くなりました。ドイツやイタリアなどとの協定とも比較されることが普通になりました。

4年間の成果

JR北海道再建問題  国鉄民営化計画の不備が3島問題を顕在化させた。一方低金利により極めて有利のなった東、西、東海特に東海JRは、金利差で極めて利益を上げることとなった。更にJR北海道はJR貨物との競合問題もあり、極めて厳しい経営環境に晒されました。私は一貫して鉄道局幹部だけでなく大臣に赤字路線を中心に乗車して欲しいと要望しました。もちろん私も8赤字路線13赤字路線区の全線乗車を自らに課しました。最後の線区は根室、釧路間の花咲戦でした。事務所のスタッフをあげて乗車しました。結果、年間400億円の財政援助を取り敢えず3年間の再建計画を国は、提示したのです。金利差に相当部分は300億円でしたのでそれを上回る財政支援でした。ある関係者は、「大臣が北海道に行く度にJR支援に好意的になった」と説明してくれました。  

医療的ケア児支援法

2016年永田町未来会議なる超党派の勉強会の結論を背景に、障害児総合支援法改正で医療的ケア児を法律用語としました。当時厚労委員会のメンバーでさえ医療的ケア児の言葉を知らない人が多く、暗澹たる思いでした。この改正を根拠とする福祉報酬費の引き上げも不十分で、現実的な解決には至りませんでした。原因は障害者用の大島分類に代わる医療的ケア児のスコアが定義されていなかったからでした。そこで定義も含め財政支援の根拠を議員立法で法定化するための試みが辛抱強く行われました。とうとう衆議院厚生労働委員会で採決され全員同意がなされました。あとは参議院の議論を待つのみです。 

気象庁改革 

流域治水温暖化の影響か近年記録的な大雨、洪水が頻発しています。その被害額はゆうに毎年1兆円を超えています。多くの被害者、家屋の流出も続出したのです。治水技術の改革、その基礎となる気象庁の観測技術の改革が必要と主張してきました。今国会で線状降水帯の観測精度の向上、それと関連する治水を流域全体で対策する。特に電力、農業用ダムの協力を得て事前放流を行なう制度を法制化したのです。治水の新しい時代を迎えることとなったのです。更に発電にも活用しようとの試みが始まるようです。私の年来の主張です。関係省庁の皆様、有難うございました。


私が心を痛めていたのは、霞ヶ関の優れた官僚が意欲を失いつつあることでした。もう一度真に国民の生活を立て直すために、政治と行政が協力する体制の構築が必要です。内閣人事局の廃止を含めたあり方の議論が必要です。良識ある若い人に議論を託します。最後に英国が英国病に晒された時、若きブレアが立ち上がりました。「一に教育、二に教育、三、四がなく五に教育」と唱え教育改革を訴え、英国病から脱したのです。日本もまた明治、戦後いずれもピンチの時、教育改革に挑戦しました。いつの時代でも優れた人材が生み出されていさえすれば、必ずピンチを脱することができます。それを信じて若き人に後を託します。たくさんの支援を有難うございました。

令和3年6月6日
荒井 聰